ねこぶんがく

文芸好きが本や映画の話をするブログ。

2021年 お気に入り本ランキング

 

 あけましておめでとうございます。

 そしてお久しぶりです。

 なかなか「読みたい欲」と「書きたい欲」が一致する時期がなくて、本を読んでも感想を書く気が起きなかったり、何か書きたくても読む気力がなくて書くことがなかったりで、気づけば3ヶ月くらいご無沙汰しておりました。

 2022年はもっとたくさん本を読んで、もっとたくさん感想を書くぞ!!

 

 ということで、新年1本目の記事は「2021年 お気に入り本ランキング」です!

 

 2021年は計28冊の本を読みました。少ない〜。

 質的にも量的にも、あまりいい読書ができなかったなと反省していたのですが、振り返ってみると、意外にも(?)いい本との出会いがありました。

 今回は私が読んで本当に面白かった5冊をランキング形式でご紹介します。

 

5位 宇佐美りん『推し、燃ゆ』

 アイドルオタクの女子高生の、推しが炎上して引退するまでの話。

 これを読んだ時、私には「推し」と呼べる存在がいなくて、この本に出てくる推しを「好きな作家」や「好きな本」に置き換えて読んでいました。作中で主人公が推しを解釈することを「推しを取り込む」と表現していて、その感覚が、私が本を読んで作品や作家を解釈する時の感覚に近いなと思ってヒヤリとしたからです。

 自分という人間の芯が見つからなくて、推しをその代替品にしてしまっている主人公に、当時とても共感したのを覚えています。

 そんな私にも半年ほど前にアイドル「推し」ができまして、今もう一度この本を読んだらまた違った感想を抱けるかもしれません。

 

 詳しい感想はこちら↓

miyolivre1.hatenablog.jp

 

4位 エレナ・フェッランテ『リラとわたし』 

 ナポリの貧民街で生まれ育った幼馴染の女子二人の友情を描いたイタリア文学。

 実は全4冊あるうちの、まだ3冊目の途中までしか読んでいないのですが、ランキングには絶対に入れたかった!

 もともとシスターフッドというか、女の子同士の友情を描いた作品が大好きで。時に嫉妬したり、時に優越感から意地悪を言ってみたり、決して美しいばかりの友情じゃないけれど、確かに自分の人生に深く食い込んでいる友だち。『リラとわたし』は、そんな友人「リラ」との何十年にもわたる関係性を、しごく細やかに描いた本です。読んでいると、まるで登場人物たちが知り合いででもあるかのように思えてきます。

 

 

3位 綿谷りさ『ひらいて』

 2021年は綿谷りさにハマった年でもありました。

 中でもこの『ひらいて』は、もはや感性の暴力と表現したくなるほど、鋭く尖った感性で描かれています。

 だれかが私の側を通り過ぎてゆくとき、私はいつも、それが見知らぬ人であっても、相手の手をつかんで立ち止まらせたくなる。さびしがりのせいだと思っていたけれど、恋をして初めて気づいた。私はいままで水を混ぜて、味が分からなくなるくらい恋を薄めて、方々にふりまいていたんだ。

 こんな文章、どうやったら書けるの!? どうやったらこんな感性で生きていけるの!?

 凡人の私は、物語より前に作者の感性の鋭さに感動してしまいます。

 綿谷りさの、他者へ向かう真っ直ぐでわき目を振らない感情の表現が大好きで、でも同時に読んでいてとても辛くなるのです。

 

 

2位 乃南アサ『しゃぼん玉』

 私の2021年泣いた本大賞です。一気読みして、死ぬほど泣いて、2、3日引きずりました。

 ひったくりを繰り返し逃走する男が、逃げた先で老婆を助けたことから、短い二人暮らしが始まるお話。

 こんなに優しい物語ってないよ。帰る場所とは何か、ということを考えさせられ、私にとっての帰る場所、家族、いろいろなことに思いを馳せ、何度も何度も泣いてしまいました。

 これに関しては私が拙い言葉を尽くすより、実際に読んで、自分の感性で感じて欲しいです。どうやら映画にもなっているようなので、そちらを観てみてもいいかもしれません。

 

 

1位 佐藤多佳子『明るい夜に出かけて』

 本当に読んでよかった、出会えてよかったと思えた本。この本のことは、読み終えてから約4ヶ月経った今でも、時折ふいに思い出してしまいます。

 この本は、問題が全て解決されて、明るく前向きに未来に向かっていこう! というような話ではありません。むしろ、歩き出す前段階の葛藤や不安を描いたお話です。そんな先の見えないひとりぼっちの暗い夜に、自分と同じように、夜を歩いている人がいる。そんなことを教えてくれるお話です。読んでいる私も、登場人物が本当にこの世のどこかに生きているみたいで、「この暗い夜に私は一人じゃないんだ」と感じられた、まさに「明るい夜」のような物語。

 

 詳しい感想はこちら↓

miyolivre1.hatenablog.jp

 

 以上です。

 

 2022年もどうぞよろしくお願いいたします!

 

ハン・ガン『菜食主義者』

 

ハン・ガン『菜食主義者

 初めて韓国文学を読んだ。韓国文学、数年前から流行ってるよね(K-POPブームとも関係がありそう?)。しばらく本屋に行かなうちに続々と翻訳が進んでいたみたいで、選択肢の多さに驚いた。

 韓国文学を読むのは今回が初めてだったので、偏ったイメージがつきにくそうで、かつ韓国文学の雰囲気を十分に感じられそうなこの本を選んだ。

 

 物語は、急に肉食を絶ったヨンヘとその周辺の人物を中心に描かれる。

 菜食主義者になるということがこの物語の中でどういった意味を持つのか、あとがきを読みながら考えてみた。

 

 動物としての人間を辞めて、考えることを辞めた植物になること。植物のように何も考えず、誰の影響も受けず、ただそこにあるだけの存在になりたいというヨンヘの願望が、肉食を辞め(=動物であることを辞め)、菜食主義者(=植物と一体化する)になるという形で現れたんじゃないだろうか。そして周囲はそんなヨンヘを狂人と呼ぶ・・・。

 私は昔、人生の何もかもが嫌になって、もう誰とも関わりたくないし何も考えたくない、と思いながら毎日を過ごしていた時期があった。ヨンヘの願望はこうした思いが加速した結果ではないだろうか? 昔の私がこの本を読んだら、無条件でヨンヘに共感していた気がする。

 

 逆にヨンヘの姉は、自分の人生を生きているか死んでいるかもわからない苦しいものだと自覚して、いっそ狂人になってしまえたら楽なのにと思いながらも、これからも生きていく決心をする。この決心は決して前向きなものではなくて、むしろ地獄に飛び込む覚悟のようなものろうことは容易に想像がつく。

 私も含めて、大抵の人は(自覚しているか否かはともかく)、人は死ぬまで生きるしかないという、ある意味では諦めの元に生きていると思う。けれど、ヨンヘの姉は一度深淵を覗いてそこから自分の意思で立ち戻ってきたという自負があるから、月並みな言い方だけど、きっとこれまでより強く生きていけるのではないかと思った。

 

 

 それから今回少し意識して読んだ「韓国文学らしさ」について。

 ヨンヘを狂わせた原因には、権威的な父親の暴力、おそらく家柄や社会的地位で選ばれた結婚相手、出世のことしか頭にない夫などがあると思うのだが、この辺りの要素はものすごく韓国らしいなと思った。韓国で生きる女性(上流層限定?)に共通する地獄なのかなと。

 そして第二章に出てくるヨンヘの義兄には、韓国男性の地獄(=出世競争から外れることの恐怖など)が凝縮されている気がする。

 

 どちらにしても、過度な競争社会が問題としてあるのかな。この本の最初から最後まで通して感じたのは、圧倒的な「疲れ」だった。

 

 

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佐藤多佳子『明るい夜に出かけて』

 

佐藤多佳子『明るい夜に出かけて』

 あらすじ;

 とある事件をきっかけに、大学を休学してコンビニでアルバイトを始めた富山。自称「歌い手」のバイト仲間・鹿沢や、深夜ラジオのリスナー同士である女子高生・佐古田、旧友でありトラウマの要因を作った人物である永川と関わるうちに、自身の世界を取り戻していく。

 

 

 登場人物がこの世のどこかできっと生きていると信じられる物語だった。久しぶりに本の中に友人を見つけられた気がした。

 人それぞれに自分だけの生活があるし、私の人生は私のものにしかならない。だから一人で背負っていくしかない。けれど、辛い時には明るい夜が支えてくれる。富山にとっての深夜ラジオがそうだったように。

 富山はラジオを通して出会った人たちと関わる中で、自分だけの人生の輪郭を少しずつ掴んでいったように感じた。そして彼らとの交流が、また自分だけの生活に戻る勇気を富山に与えたのだと思う。

 人は結局のところ一人で生きていくものだと私は考えているけれど、一人で生きていく勇気を得るために、私たちは誰かの存在を求めるのかな、と思ったりもした。

 

 富山にとっての明るい夜はラジオだったけれど、私にとっての明るい夜は本だ。どんなに暗い人生を送っている時でも、本が灯りを灯してくれたから、私は今も生きていられる。そしてこの本も、そんな夜に浮かぶ灯りの一つになった。

 

 最後に、なんの脈絡もないようだけど、この本を読んでいたら、昔書いていた小説の登場人物たちを思い出した。生きるのが辛いとき、彼らの物語を考えて、一緒に人生を考えることに慰められていたなと。

 そんな彼らは今どうしているだろう。

 完結こそさせられなかったけれど、当時は物語の結末まで考えていた。今の私は彼らの行く末をどう導くだろう、どう導きたいのだろう。

 もう一度彼らの物語を続けてみようかな。そしたら以前とは違った結末を用意できる気がする。

 

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【読書】一方通行の友情? 奥田亜希子『クレイジー・フォー・ラビット』

 

 

奥田亜希子『クレイジー・フォー・ラビット』

 

 

あらすじ

 人の隠し事のにおいを感じ取ることができる愛衣。クラスメイトに本音を言えず糾弾された小学生時代、独りぼっちにならないために周りに合わせて生きていた中学生時代――。”友だち”との関係の変化を描いた連作短編集。

 

 

感想

 柚木麻子さんが書かれている帯に惹かれて手に取った本です。

「身近な彼女に片思いしている全ての女性に」

 この「片思い」は恋愛感情ではなく、友だちへの一方的な感情です。友人関係って思いのほか対等ではないし、自分はあの子と仲良くなりたいと思っていても、向こうはそれほどこちらを気にしていなかったり……。”片思い” 状態の友人関係って、誰しも身に覚えがあるんじゃないでしょうか。

 

 本書の中に次のような言葉が出てきます。

友だちがもっと自発的に、自分のことを思い出したり考えたりしてくれたらいいのに。 

  この感情、わかるなぁ。

 

 最近シスターフッドが流行っているじゃないですか。シスターフッドというのは、女性同士の友情のこと。まるで姉妹みたいに仲の良い女友達のことを指します。

 かくいう私もシスターフッド小説が大好きなんですが、じゃあ何でも話せる姉妹みたいな女友だちがいるかと言われると、残念ながらいないと言わざるを得ません。友だちの中でも、この子には気を遣うなぁとか、この子の前ではカッコつけちゃうなぁとか、何かしら「完璧な友だち」と言うには惜しい要素が一つはあるものです。

 

 では、そんな友だちは本当の友だちとは言えないのでしょうか。

 本書の主人公・愛衣は、色々な人と関わる中で考えを変化させつつも、最後には虚勢や嘘が含まれた友人関係であっても「友だち」であると結論づけます。

 仲良くなりたいからこそ時には嘘をついてしまうし、恰好つけたいときもある。けれど、その「仲良くなりたい」という気持ちに嘘はないのだから。

 物語に出てくるような完璧な友だちじゃなくても、愛衣にとって、また私にとって、周りの友人たちはまぎれもなく「友だち」なんですよね。

 

 最近よく思うのですが、趣味の話で盛り上がる友だちと、悩みを聞いてほしい友だちと、暇なときに何となく話したくなる友だちと、それぞれ違うんですよね。全てを兼ねた友だちなんていないなって。

友情は、好意と思惑とタイミングが重なる場所に、日々の努力で咲かせるものなのだ。

 シスターフッド小説に出てくるような、いつなんどきも一緒にいたい友だちなんていないけれど、友だちって案外、利己的で自由なものなのかもしれないですね。無償ではありえない、ギブアンドテイクでしか成り立たないものというか。けれどその何にも縛られない無責任な関係性が、友情の真価のような気がします。

 

 

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【おすすめ韓国映画】『パラサイト 半地下の家族』ネタバレレビュー

 

 アカデミー賞受賞で話題となった韓国映画『パラサイト 半地下の家族』。Netflixで配信されていたので観てみたのですが、予想を超える面白さでした。余韻の重たさにひたりながら、レビューしていきたいと思います。

 

 

あらすじ:

 半地下で暮らす貧しい一家が裕福な家族の使用人として豪邸に入り込み、寄生に成功する。豊かな生活のおこぼれにあずかっていたところ、元使用人がこの家に隠されたある秘密を暴露し、事態は一変する。貧しさとはどういうことか、全人類に現実をつきつけた問題作。

 

 

 アカデミー賞受賞で話題になった当時の評判から、どこか純文学的な、シリアスで重たい話という先入観を持っていました。だから気合を入れて観始めたのですが、序盤は意外にもコミカルで笑える展開がたくさん。

 主人公一家が金持ちのキム一家の使用人を次々と追い出し、代わりに自分たちが使用人として豪邸に出入りするようになる場面など、あまりの快進撃に胸がスッとしさえしました。

 

 ……が、序盤のコミカルなシーンから一変、後半は怒涛の勢いで現実をつきつけられます。

 

 キム一家がキャンプに出かけた日、我がもの顔で豪邸を占領し、豪華なお風呂や料理を楽しんでいた主人公たちのところへ、キム家の元使用人がやってきます。彼女はこの家の誰も知らない地下へと急ぎます。そこにはなんと、彼女の夫が隠れて生活していたのです。彼女は使用人という立場を利用して、キム一家の目を盗み、食べ物などをくすねては地下の夫に運んでいたのでした。

 彼女はこのことを秘密にするよう懇願しますが、主人公一家はこれを拒否。乱闘になってしまい、元使用人は死亡、その夫も怪我を負ってしまいます。

 

 雨により急遽帰宅してきたキム家の豪邸からほうほうの体で逃げ出してきた主人公一家。くしくも彼らの半地下の家は大雨で浸水し、とても住める状態ではなくなっていました。

 大雨にもかかわらず平穏に眠りにつくキム家の人間と、体育館に避難し、他人と雑魚寝をする主人公一家の対比がなんとも残酷です。

 

 豪邸に出入りし、裕福な生活の表面を味わうことができたとしても、そこに住む人々と貧乏人の自分たちとの間にははっきりと境界線が引かれている。そんな現実をまざまざと突きつけられる瞬間です。

 

 後日、キム家のパーティーに元使用人の夫がナイフを持って乱入し、大騒ぎになります。家庭教師として参加していた主人公の妹が胸を刺され、慌てて駆け寄る父。そんな彼に近づこうとしたキム家の父親は、とっさに鼻をつまむのです。

 

 主人公の父は激昂し、キムを刺して地下室へと逃げ込みます。明るいパーティー会場から地下へと続く階段を駆け下りる絶望的な姿がとても印象的でした。

 

 映画の中で、キム家と半地下の家族との対比は何度も繰り返し描かれますが、この時ほどはっきりと両者の住む世界が異なるものとして現れたことはありません。

 二つのかけ離れた世界の境界線を飛び越える唯一の手段が、死という平等さだったのかもしれません。

 

 映画はすべて「半地下の家族」の目線で描かれるため、キム家の暮らしはどこか曖昧で、生活感に乏しく感じられます。裕福な家庭にもそれなりの苦労や悩みがあるでしょうし、裕福が必ずしも幸福に結びつくとは限りませんが、「半地下の家族」の目線からはそういった事情は見えないのです。

 しかし、この映画を見る人のほとんどは「半地下の家族」側の人々ではないでしょうか。だからこそ、こんなに多くの共感を呼んだのでしょう。

 

『パラサイト』を観ながら、思い出した光景がありました。

 私は会社員ですので、毎日決まった時間に家を出て、満員電車に乗って出勤しています。朝、会社に着くと、玄関にリムジンが停まっていて、スーツを着込んだ運転手が社長のためにドアを開けるのを何度か目にしたことがあります。

 人を使う側と使われる側。

 私も裕福な人に寄生する人間の一人なのかもしれない。と、そんなことを考えてしまいました。

 

 

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