ねこぶんがく

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【本レビュー】太宰治『人間失格』初読の感想を正直にまとめてみた

※2017年に書いた記事を再掲載しています

 

 

太宰治人間失格1948)

斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇 (文春文庫)

斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇 (文春文庫)

  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 2000/10/06
  • メディア: 文庫
 

 

あらすじ:

幼い頃から人間というものを理解できず、恐怖さえ感じていた主人公の一生にわたる苦悩を描いた作品。

 

 

感想:

 

言わずと知れた名作ですね!

 

主人公は人間の二面性というものが理解できない。

 

なぜ人には裏表があるのか? なぜ人は人を欺くのか?

善人顔して通りを大手を振って歩いている人間もみな、表の顔と裏の顔の両面を持ち合わせている。

それでは善とは何なのか。

 

主人公は人間というものが心底理解できないが、人間に嫌われるのもまた恐ろしく、道化を演じることで何とか周囲と強調して生きています。(このエピソードがまたリアルなんですよね)

つまり自分を偽って、「人に好かれる人間」を演じているのです。

 

それだから主人公は人間不信のわりに人に好かれます(特に女性から)。

店に入れば目が合っただけで惚れられ、近所の女性たちからは毎日のようにラブレターが来る……

面倒だのなんだの言っていますが、この辺は普通にモテ自慢やないかいって感じですね。

 

というか、人間不信だと言うわりに彼は結構盛んに人とコミュニケーションをとってると思うんですよ。

堀木にしろマルクス主義会合の‟同志”たちにしろ。

人間が怖いというのなら家に引きこもっていればいいものを、なぜ彼はそうまでして人間と関わるのでしょうか。

 

彼は道化を演じていることが周囲にバレてしまうのを怖がっていました(自分の本質は他者に好意を持たれる代物じゃないと思っていたのかも)。

でも、我々は誰しもそうした二面性を持ちながら生きているのではないかと思うんです。

例えば親しい友人といるときの自分と、初対面の人の前で見せる自分は別人ですよね。

 

彼は自身もそうであるにも関わらず、人間の二面性を理解できず、恐れているのです。

 

では、彼と他者との違いは何なのか。

 

一つには、二面性の種類の違いです。

 

先ほど私は「親しい友人とそうでない人に見せる自分は違う」と書きました。

これが彼の恐れる二面性であり、我々の多くが持つものであると思います。

 

ですが彼の持つ二面性というのはあくまで自己と他者の間にあるもので、決して他人同士の間にあるものではないのです。

どういうことかと言いますと、例えば彼は堀木さんと一緒にいるときの自分と、ヒラメ(彼の身元引受人)と一緒にいるときの自分に区別をつけない。

他人に興味のない彼は、人によって態度を変えるといったことがないのです。

彼の持つ二面性は、自分ひとりでいるときの自分と、他人の中にいるときの自分の違いにあるのではないかと思うんです。

 

彼には前者のタイプの二面性が理解できず、恐れている、と考えられます。

 

そしてもう一つの違いというのは、己の二面性を自覚しているかどうかです。

 

彼は作中で何度も書かれているように、己が道化を演じていることを理解し、そんな自分に嫌気さえさしているように感じられます。

ですが彼の恐れる人間たち、彼の両親や兄弟などは、意識することなく自然に二面性を持ち合わせているのです。

 

この「自覚の差」こそが彼に「自分は他者とは違う」という認識を植え付けた原因ではないかと思うんです。

 

己の二面性を自覚することなく、さも善人であるかのように生きている者への不信と恐怖。

その「恐怖」は、無意識に軽蔑へつながっているような気がします。

 

なぜ自分の醜さに気付かないのか? なぜそのような醜悪な性質を持っていながら平気で生きていられるのか?

私はそんな輩とは違う。

 

人間失格」という題は、「自分は他者とは違う」という主人公の驕りと軽蔑を凝縮した言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

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完全に初読の状態で思ったことをそのまま書いてみました。

 

この作品は主人公の行動に理解できない部分も多く、真面目に解釈しようとするとそれこそ何百回と読み返す必要があるなと感じました。

逆に言えば、何度読んでも違う解釈が生まれる作品ではないかと思います。

だからこそ名作として読み継がれているんでしょうね。

 

私もそのうち再読しちゃう気がします。