ねこぶんがく

文芸好きが本や映画の話をするブログ。

【文学小話】『六の宮の姫君』から始まった不思議な縁

先日、北村薫『六の宮の姫君』を読みました。

芥川が自身の作品『六の宮の姫君』についてこぼした(架空の)言葉、「あれは玉突きだからね。いや、キャッチボールかな」の真意を解き明かす話で、作中では(ネタバレしますが)菊池寛の『首縊り上人』を受けて書かれた作品なのではないか、という解釈がなされています。

 

なるほど時系列を詳細に調べればこんな見方もできるのかと、

「本」という物の先にはやはり人がいるのだという当たり前の事実を改めて実感し、文学の味わいが増したように感じました。

 

とはいえ菊池寛の『首縊り上人』は未読。

さっそく近所の図書館で探してみたのですが、なにぶん田舎ゆえに文学全集の類はほとんど置いてなく……。残念ながら読むことはできませんでした。

 

私は普段本は新品を買って読む派で、図書館を訪れることはほとんどありません。

実のところ近所の図書館に足を踏み入れたのもこの日が初めてで、『六の宮の姫君』がなければ今後も足を運ぶ機会はなかったでしょう。

そう考えるとこれも縁ですよね。

 

で、せっかく普段来ない図書館に来たのだからと、もう一人の気になっていた作家の本を探すことにしました。

正宗白鳥

白鳥は芥川の『往生絵巻』という短編に感想を寄せたことがあり、それについて『六の宮の姫君』で触れられていたのです。

 

全集はやはり置いていなかったのですが、見つけました見つけました。

ポプラ社から出ている『百年小説』という選集。

これに正宗白鳥の『死者生者』が載っていたのです。

 

読んでみてびっくり。

芥川が大正の名作として『死者生者』を挙げた、という記述があったのです。

うわー、なんという偶然。なんという縁。

 

『死者生者』は病により死を目前に控えた八百屋の店主の話で、安らかに死なんがために仏にすがる場面があります。

対して芥川の『往生絵巻』ですが、仏道を志した五位の入道が寝食を忘れて熱心に念仏を唱え続け、ついに骸となった彼の口に白蓮華が咲いた、というもの。

白鳥はこの結末を取り上げて「白蓮華は芸術上の装飾に過ぎない、実際にはそういう人は醜い骸となって朽ち果てるだけだ」というような感想を述べているのです。さすがは自然主義文学の人、といった感想。

 

さて、正宗白鳥『死者生者』が発表されたのは1916年、芥川龍之介『往生絵巻』は1921年

上記の芥川の「大正の名作」発言がいつ頃のものかは調べてみないとわかりませんが、もし『往生絵巻』以前のものなら、ここでもまた「キャッチボール」が行われているのではないか?

そんな深読みもしてまいます。

 

北村薫『六の宮の姫君』から始まり、偶然見つけた『死者生者』。

そこから再び芥川に戻ってくるという縁に不思議な感動を覚えました。

本ってやっぱり面白い!!

【本レビュー】又吉直樹『夜を乗り越える』

※2018年に書いた記事を再掲載しています

 

 

『夜を乗り越える』 /又吉直樹

 

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

  • 作者:又吉 直樹
  • 発売日: 2016/06/01
  • メディア: 新書
 

 

 

芥川賞作家・又吉直樹が「なぜ文学を読むのか」を語ったエッセイ。

 

 

ふだん本を読まない人に読書の魅力を伝えることを念頭に書かれたみたいですが、本好きも十二分に楽しめるエッセイです。

 

又吉さんは読書の魅力を「共感」「新しい感覚を発見すること」の二つだと言います。

この本もまさにこの二つを体感できる本でした。

 

本の読み方や魅力について書かれた部分は「本好きあるある」として楽しめましたし、

又吉さんの文学観は、私にとって「新しい感覚の発見」につながりました。

 

とにかく文学への情熱がはんぱじゃない方なんですね、又吉さん。

文学に対して本当に誠実に、真正面から向き合っているんだなーと感じました。

中でも特に感心したのはこの一文。

 

 “どうせ読むなら、楽しむという指標において、本+自分の読み方の総合点では誰にも負けたくない”

 
これを読んだとき、ああこの方は本当に文学が好きなんだな、なんて作品への敬意と愛情にあふれた言葉なんだろう、って目の覚める思いでした。
私こんなに純真な気持ちで本に向き合ったことあったかな、って。
尊敬すると同時に、自分の文学との向き合い方を見直すきっかけにもなりました。
 
なぜ本を読むのか、私も私なりの答えを考えてみようと思います。

【本レビュー】夏目漱石『私の個人主義』

※2018年に書いた記事を再掲載しています

 

 

夏目漱石『私の個人主義(1915)

私の個人主義 (講談社学術文庫)

私の個人主義 (講談社学術文庫)

 

 

1914年11月に漱石学習院で行った講演を筆記したもの。

漱石自身の経験から、自らの生きる道を探す意義と、個人を尊重することの重要性を説いている。

 

 

 

これは大学生の今読めて本当によかった。

 

 

自分が何になりたいか、本当にやりたいことは何なのか。

そんなものが私にもあるのか。ないんじゃないのか。

でも「本当にやりたいことを見つける」ことを諦めたくない。

何をどうすればそれを見つけられるんだろう。

 

生きていく上で誰しもがぶつかる課題。

答えがあるのかすら分からないこの問いに自分なりの答を与えることが、生きる意味なのではないかとすら思います。

 

そんな迷いと煩悶に日々を費やす学生たちに、漱石はこう話しています。

 

 

 “どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。”

 

 “もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです”

 

 “ああここにおれの進みべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずることができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか”

 

 

月並みな言い方ですけど、私、これを読んだとき本当に勇気をもらいました。

進むべき道が分からなくても、歩みを止める必要はないと。

霧の中をひたすら歩き続けることにも意味はあるのだと、

今の私の状況を肯定してくれたような気がして。

 

私の周りには、すでに自分の本分を見つけて、夢に向かって努力を始めてる人がたくさんいるんですよね。

その姿がとってもうらやましくて、同時にめちゃめちゃ焦ってたんですけど。

まだまだ遅くはない、悪あがきを続けようって思えました。

 

あの漱石だって文学の道に入ったのは30代になってからだもんね。

 
 

それにしても、こういう、迷いを肯定してくれる文章ってめちゃくちゃ心に残る。

私が人生の路頭に迷ってるからでしょうか(笑)

 

 

漱石、いい先生だったんだろうなぁ

もっとも本人は教師という職業に何の愛着も持っていなかったみたいだけど。

先生の授業、生で受けてみたいな~。

【本レビュー】太宰治『人間失格』初読の感想を正直にまとめてみた

※2017年に書いた記事を再掲載しています

 

 

太宰治人間失格1948)

斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇 (文春文庫)

斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇 (文春文庫)

  • 作者:太宰 治
  • 発売日: 2000/10/06
  • メディア: 文庫
 

 

あらすじ:

幼い頃から人間というものを理解できず、恐怖さえ感じていた主人公の一生にわたる苦悩を描いた作品。

 

 

感想:

 

言わずと知れた名作ですね!

 

主人公は人間の二面性というものが理解できない。

 

なぜ人には裏表があるのか? なぜ人は人を欺くのか?

善人顔して通りを大手を振って歩いている人間もみな、表の顔と裏の顔の両面を持ち合わせている。

それでは善とは何なのか。

 

主人公は人間というものが心底理解できないが、人間に嫌われるのもまた恐ろしく、道化を演じることで何とか周囲と強調して生きています。(このエピソードがまたリアルなんですよね)

つまり自分を偽って、「人に好かれる人間」を演じているのです。

 

それだから主人公は人間不信のわりに人に好かれます(特に女性から)。

店に入れば目が合っただけで惚れられ、近所の女性たちからは毎日のようにラブレターが来る……

面倒だのなんだの言っていますが、この辺は普通にモテ自慢やないかいって感じですね。

 

というか、人間不信だと言うわりに彼は結構盛んに人とコミュニケーションをとってると思うんですよ。

堀木にしろマルクス主義会合の‟同志”たちにしろ。

人間が怖いというのなら家に引きこもっていればいいものを、なぜ彼はそうまでして人間と関わるのでしょうか。

 

彼は道化を演じていることが周囲にバレてしまうのを怖がっていました(自分の本質は他者に好意を持たれる代物じゃないと思っていたのかも)。

でも、我々は誰しもそうした二面性を持ちながら生きているのではないかと思うんです。

例えば親しい友人といるときの自分と、初対面の人の前で見せる自分は別人ですよね。

 

彼は自身もそうであるにも関わらず、人間の二面性を理解できず、恐れているのです。

 

では、彼と他者との違いは何なのか。

 

一つには、二面性の種類の違いです。

 

先ほど私は「親しい友人とそうでない人に見せる自分は違う」と書きました。

これが彼の恐れる二面性であり、我々の多くが持つものであると思います。

 

ですが彼の持つ二面性というのはあくまで自己と他者の間にあるもので、決して他人同士の間にあるものではないのです。

どういうことかと言いますと、例えば彼は堀木さんと一緒にいるときの自分と、ヒラメ(彼の身元引受人)と一緒にいるときの自分に区別をつけない。

他人に興味のない彼は、人によって態度を変えるといったことがないのです。

彼の持つ二面性は、自分ひとりでいるときの自分と、他人の中にいるときの自分の違いにあるのではないかと思うんです。

 

彼には前者のタイプの二面性が理解できず、恐れている、と考えられます。

 

そしてもう一つの違いというのは、己の二面性を自覚しているかどうかです。

 

彼は作中で何度も書かれているように、己が道化を演じていることを理解し、そんな自分に嫌気さえさしているように感じられます。

ですが彼の恐れる人間たち、彼の両親や兄弟などは、意識することなく自然に二面性を持ち合わせているのです。

 

この「自覚の差」こそが彼に「自分は他者とは違う」という認識を植え付けた原因ではないかと思うんです。

 

己の二面性を自覚することなく、さも善人であるかのように生きている者への不信と恐怖。

その「恐怖」は、無意識に軽蔑へつながっているような気がします。

 

なぜ自分の醜さに気付かないのか? なぜそのような醜悪な性質を持っていながら平気で生きていられるのか?

私はそんな輩とは違う。

 

人間失格」という題は、「自分は他者とは違う」という主人公の驕りと軽蔑を凝縮した言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

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完全に初読の状態で思ったことをそのまま書いてみました。

 

この作品は主人公の行動に理解できない部分も多く、真面目に解釈しようとするとそれこそ何百回と読み返す必要があるなと感じました。

逆に言えば、何度読んでも違う解釈が生まれる作品ではないかと思います。

だからこそ名作として読み継がれているんでしょうね。

 

私もそのうち再読しちゃう気がします。

 

【本レビュー】読書感想文におすすめの本! 草野たき『ハチミツドロップス』

※2016年に書いた記事を再掲載しています

 

 

ハチミツドロップス』(講談社文庫)

作:草野たき

ハチミツドロップス (講談社文庫)

ハチミツドロップス (講談社文庫)

  • 作者:草野 たき
  • 発売日: 2008/07/15
  • メディア: 文庫
 

 

あらすじ

明るくてお調子者の中学生女子・カズはソフトボール部のキャプテン。

カズの所属するソフトボール部は、「ドロップアウト集団のくせに、部活の甘くておいしいとこだけを味わってるやつら」という意味で「ハチミツドロップス」と呼ばれている。

部活のある日は更衣室に集まってだべるだけの楽しい青春――のはずが、体育会系の真面目な新入生の入部によって、カズたちの居場所はなくなってしまう。



感想

再読本です。初読はおととし。

「自分らしくあること」を意識しすぎるあまり、逆に自分らしさに縛られてしまうってこと、誰にでもあると思います。

これは「ハチミツドロップス」という居場所を失った女の子たちが、自ら作り上げた「自分らしさ」の皮を脱いで、本当の自分に近づくお話。

個性的なメンバーや、その裏にある個々の感情がとても秀逸に描かれています。







<※以下、ネタバレ含む読書感想文>






草野たきさんの本を初めて読んだのは小学六年生のとき。『ハッピーノート』が最初でした。

それから何年か経って、ふとあのとき大好きだった児童書の作者さんの他の作品を読んでみようと思って手に取ったのがこの本です。

 

初読の印象は正直あまりよくなくて、「え、これでおしまい?」と思った記憶があります。

何もかもが中途半端に終わっていて、「何も解決してなくない?」というのが正直な感想でした。

しかし今改めて同じ物語を読んでみると、こんなに深い話だったのか! って感じです。



主人公のカズこと果豆子(かずこ)は、元気でお調子者。

だけどそれは表の顔で、実際は「カズらしくあろう」とするあまり、本当の自分を出せないでいる弱気な女の子。

カズは、自分で作った「明るくてお調子者な自分」を「カズらしさ」ととらえ、それに縛られています。

どんなに泣きたいときでも、自分らしさを失わないために明るく振る舞おうとする、これってなかなか辛いことだと思います。

自我が発達していく過程にいる中学生だからこその悩みともいえる。

草野さんはこの辺の描写がとっても上手いんですよね。

 

“でも、もう、カズらしさにしばられたくない。私はもっと、自分を大事にしていいんだ”

 

自分に素直に生きることは、自分を大事にすることと同じなんですね。

私は今、自分を大事にしているか?

自分に素直に生きているか?

そう自問自答したくなります。



それから、このお話はきれいごとで終わらないところがまたいいんです。

 

真面目な一年生が入ってきた、楽しくてお気楽な部活がのっとられちゃう、でもやっぱりこんなんじゃだめだよね、私たちも真面目に練習しよう――

この本はこんなストーリーで終わりません。

 

運動部で汗を流して優勝することだけが青春の正解じゃない。

だから、カズたちはソフトボールに真剣に取り組むことも、部活を取り返そうとすることもありません。

最初から最後までハチミツドロップスを貫きます。

 

だけど確実に彼女たちは成長してるんです。

ハチミツドロップスを失ったことによって、それぞれが自分と向き合う時間ができる。

そこを描いているんです。

 

そして、自分と向き合ってみたことで何かが変わった人もいれば、これから変わろうとする人もいる。

みんながみんなきちんと答えを見つけたわけじゃない。

この不完全さがリアルなんです。

 

自分に素直に生きようと決意したカズ。

自分の気持ちに気付きかけている真樹。

自分の気持ちに気付いて、素直になろうとしている高橋。

最初から自分に素直に生きていた矢部さん。

そして、うまく自分と向き合えずに未だ苦しんでいる田辺さん。

 

それぞれがそれぞれのペースで生きているから、答えにたどり着くまでの距離が同じなわけはないんです。

ちょっとだけ何かが変わった、ただそれだけ。

この本に書かれているのはたったそれだけ。

「それだけ」に気付けるようになった私も、たぶん二年前の私とは違うのでしょう。